山形の〈昔の〉怖い話「其の七・蛇ぞろぞろ/その弍」

だれかの散文|黒木あるじの山形あやかし取材帖

 前回は蛇にまつわる山形の伝承を紹介したのだが、調べていくうちに〈山形の蛇話〉が存外に多く、いずれも魅力的な話ばかりであるのを知った。ならば一度きりで終わらせるのも勿体ない。そんな思いから、蛇よろしくずるずると引き伸ばし、今回もご紹介したいと思う。

 そういえば土砂崩れや水害などの多い場所は、後世にそのことを知らせるため〈蛇〉の文字を地名につけたと聞く。県内でも酒田市の蛇場見、上山市の蛇柳、東根市の蛇木など各地に散見されるが、たしかに丘陵地であったり川が流れていたりする。蛇が不吉で奇怪な存在であると認知されていた証左だろうか。

 反面、蛇は神の使いともされる。『新庄市史 別巻 民俗編』には、新庄市本合海の白蛇大権現が歯痛の神様として崇められていたとの記述があり、三川町には双頭の蛇を祀った「蛇ニオ」が残っている。また、米沢市の日朝寺には三頭一身の蛇骨が安置されており、江戸時代の随筆家・山崎美成の『提醒紀談』に蛇骨のスケッチが載っている。

 怪しく、神々しく、美しく、怖い──なんとも矛盾に満ちた、奇妙きわまる生き物についての伝承を、もうすこし覘いてみるとしよう。

第壱話

 まずは米沢市に伝わる奇妙な護符を紹介したい。この護符、なんと蛇が授けたのだという。はたしてどのような由来なのだろうか。《》で括られた箇所が要約部分、最後の()内が引用した文献である。

 その昔、米沢市福田町の静田家に住む茂太という男が野原を通りかかった。ふと見れば、子供らが蛇に悪さを働いているではないか。蛇を哀れに思った茂太は「無益な殺生を止めよ」と子供たちを咎めて銭を与えると、蛇を買いとり薮へ逃がしてやった。

 すると数日後、茂太は街角で黒衣の僧に呼びとめられた。僧は茂太に向かい「自分は蛇王の使いである」と告げ、「先日の礼をしたいから一緒に来てほしい」と申し出た。案内されるまま僧についていけば、辿りついたのはなんとも立派な家。家の主人は、驚く茂太を美女や山海の珍味でもてなし、最後は〈蛇に噛まれた際の毒消し〉を与えて見送った。これが、いまも静田家に伝わる蛇除けの護符と毒消し薬の由来なのだという。(『米沢市史 民俗編』米沢市史編さん委員会編)

 窮地を救った生き物が、恩に報いて宝物を授ける──鶴女房や舌切り雀など〈動物報恩譚〉の構造を有している部分がなんとも興味深い。豪奢な邸宅に招待されるあたりは浦島太郎に代表される〈異郷訪問譚〉の要素だろうか。生き物が授けるのは長寿や金銀財宝などが一般的なのだが、蛇除けという点もなかなか面白い。それだけ蛇が脅威であったということか、それともなにかの象徴なのだろうか。

 もっとも、この話だけならば「そのような言い伝えが、地区にひっそり伝わっていたのだな」との感想で終わるはずだ。ところがこの話、米沢だけでは終わらない。新潟市西区にある静田神社は、先述した話に登場する静田家の子孫が建てたのである。かつて神社付近にある新川では子供の溺死が絶えなかった。住民はこれを蛇の祟りと恐れ、明治中期に静田家の子孫である孫平を世話人として社を建立、先祖伝来の護符を祀ったのだという。地域を越えていまなお妖力が崇められているとは、さすが生命力の強い蛇と感心するよりほかない。

 本稿で毎回述べているが、郷土史の類は奇譚の宝庫である。とりわけ民俗をあつかった項はページを捲るだけで心が躍る。地域の図書館に足を向けたおりは、ぜひ覗いてみることをお勧めしたい。

第弐話

 続いても、米沢絡みの蛇譚である。どうやら米沢は蛇と因縁浅からぬ土地のようだ。そういえば市内には、直江兼続が松川の水害を防ぐために築いた石垣「蛇堤」がある。それが蛇の説話が多い理由──とはさすがに思わないが、なにやら不思議な縁を感じてしまう。

 あるとき、米沢の山中にある巨木から火が出た。出火の理由はこれといって見あたらず、木が燃えるおりには幹のなかで誰か叫んでいるような声が聞こえた。おらぶ声は長々と続き、なかなか止む気配がなかったという。鎮火したのち調べてみると、焦げた幹には臼を思わせる窪みがあり、そこで一匹の巨大な蛇が焼け死んでいたそうである。(高橋明彦「翻刻・古賀侗庵『今斉諧』(坤)」『金沢美術工芸大学紀要』44)

 出火の原因は怪しい蛇だったのか。そして、叫び声は蛇が発したものなのか。そもそも、どうやって蛇は木中に侵入したのか。なにも解決しないまま淡々と終わるあたりになんともいえぬ生々しさを感じ、ぞっとしてしまう。まさしく奇談と呼ぶにふさわしい逸話だ。

 この記録を「蛇啼」の題で記したのは、江戸時代の儒者・古賀侗庵(こがとうあん)。寛政の改革を手がけた古賀精里(こがせいり)の三男にあたり、幕府の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」で教授を務めた人物である。

 侗庵は怪談奇談をことのほか好んだようで、昌平黌の門下からその類の話を聞き集め、今斉諧』という書物にまとめている。なかでも羽州米沢藩士の香坂維直は『今斉諧』に二十話を提供しており、うち十九話が米沢の怪談となっている。夜更けた江戸の片隅で、山形の奇談が訥々と語られていく──そんな光景を想像すると、なんだか楽しくなってしまうではないか。

第参話

 最後は、明治の山形に出現した蛇の話で終わろう。登場する蛇は神の使いとおぼしいが、その怒りたるや凄まじいものがある。なにせ、複数人に禍が降りかかっているのだ。
高畠町露藤地区にある白髭神社は、その別名を白髭明神という。ここでは明治三十三年(一九九〇年)、神社の近隣に奥羽本線が敷設された際、境内を飯場として使っていた作業員たちが怪異に見舞われたとの話が残っている。

 ある夜には境内で眠っていた数名が凄まじい怪音を聞き、別な夜は開通していないはずの線路から汽車が走ってきて、みなの見ている前で衝突したという。また境内にある「奥の院沼」で炊事や洗濯をおこなったため白蛇に襲われた者もあった。ある鍛冶屋は堂内へ泊った際に大蛇を目撃し、祟りを恐れて蝋燭台を寄進したそうだ。(『つゆふじの伝説』安部忠内/『高畠町伝説集』高畠高等学校文芸班編)

 明治・大正期には「狸が汽車に化けたものの、本物の車両に轢かれてしまった話」など、汽車にちなむ奇談が多く語られている。急速な近代化にあらがう人間の心理が反映されているように思えてならない。だとすれば高畠で起こった諸々の怪事も、鉄道という「新しい未知」に対して「旧い未知」が抵抗を試みたということなのだろうか。明治33年は、パリで万国博覧会や第2回オリンピックが開催されている。それほどまでに進歩した世の中であっても、蛇神の怒りは有効らしい。

 興味深いのは白髭神社である。本社は滋賀県の琵琶湖畔に鎮座しており、そのためか分社も水神との関わりが深い。水神である龍と同一視されている蛇が登場するのも納得できるというわけだ。
事実、広島県隠岐の島町にある白鬚神社では、境内の神木へ全長40メートルにもなる藁の蛇を巻きつけ、五穀豊穣を祈る風習がある。また、東北では洪水を「白髭水」と呼び、「白髭の翁が大波に乗ってきた」なる伝承が青森県の十三湖や岩手県の北上川、福島県の只見川などに残されている。今回の話では〈奥の院沼〉が鍵になるだろうか。もしや、蛇はいまでもここに棲んでいるのだろうか──。

 『つゆふじの伝説』は高畠町の伝承を集めた一冊、著者は安部忠内氏である。もとは私家版だったが、東北文教大学短期大学部の民話研究センターがテキストに起こして冊子にしている。同センターのホームページで全編が読めるのも非常にありがたい。

黒木あるじ

怪談作家。1976年青森県弘前市生まれ。東北芸術工科大学卒。池上冬樹世話役の「小説家(ライター)になろう」講座出身。2009年、『おまもり』で第7回ビーケーワン怪談大賞・佳作を受賞。同年『ささやき』で第1回『幽』怪談実話コンテストブンまわし賞を受賞し、2010年に『震(ふるえ)』でデビュー。

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