山形の〈昔の〉怖い話「其の四・狐あれこれ」

だれかの散文|黒木あるじの山形あやかし取材帖

 本稿を書くため県内の市町村史や郷土資料を調べていると、怪談奇談が「狐のしわざ」として片づけられている事例の多さに気づく。現代であれば幽霊や妖怪にカテゴライズされそうな事象も、ある時代までは〈狐〉という名の箱へ乱暴に放りこまれていたらしい。

 興味深いことに、人を化かす狐たちの少なくない数が、人間とおなじような名前を有している。もっとも知られたところでは東根市の與次郎稲荷が挙げられるだろうか。與次郎は秋田の佐竹家に飛脚として仕えていた狐で、江戸と秋田を三日で往復したという。しかし東根市六田の旅籠に泊まったおりに殺害され、それを恨んで六田の住民を次々に祟り殺した。その怒りを鎮めるため、與次郎稲荷神社が建立されたとの謂れがある。

 また、天童市には喜太郎稲荷神社が残っている。喜太郎はもともと狐崎喜太郎という家臣であったが、京都の伏見稲荷を参拝したおりに神力を得て稲荷になったとされている。最上義光が天童頼澄を攻めた際は幻術で最上勢を大いに悩ませたとの伝承もある。天童氏が伊達氏に仕えて以降は、所領を得た多賀城にも喜太郎稲荷が祀られた。

 穿った見方をする性分の私としては、暗殺や隠密など〈正史〉として記録できない出来事を「狐のせい」にして処理したのではないか──そんな疑念を抱いてしまう。「あの者は狐だった」「あの出来事は狐のしわざだった」といえば、当時の人々は行間まで読み取って納得したのかもしれない。つまり、化け狐が人の名前を与えられたのではなく、人間が狐に〈化けた〉わけだ。なるほど、たしかに狐は非常に便利な存在であったようだ。
しかし──そんな仮説からもこぼれ落ちてしまう、怪しい言い伝えも存在する。訳知り顔で持説を述べる私を嘲笑うように、妖狐たちが跋扈する話も記録されている。今回は、そんな奇妙な狐の話を紹介してみよう。

第壱話

 まずは、新庄市に出現したという狐の話から始めよう。この狐、化かすといっても木の葉を金に変えたり、馬糞を饅頭と騙して食わせるなどといった牧歌的な真似はしない。ただただ得体が知れず、ひたすらに怖いのだ。

《新庄市宮内の下田家に祀られていた稲荷は、たびたび老婆の姿で人を化かしたといわれている。ある人が夜中に稲荷の前を歩いていたところ、白髪の老婆が何枚にも重ねた布団を持ち上げようとしているのを目に留めた。哀れに思い「持ってやろうか」と手伝いを申しでると、老婆はニヤッと笑うなり消えてしまったという。

 また別の晩、一人の男がこの稲荷の前で立ち小便をしていると誰かがそばに近づいてくる。見れば、それは体長三十センチほどの異様に長い口をした老婆で、男の小便するさまをじっと見つめている。恐ろしくなった男は小便の途中で逃げだし「あれはきっと怒った稲荷だったのだろう」と周囲に告げたそうである。》(『かつろく風土記』笹喜四郎)

 異様に長い口をした──とは、狐の相貌をあらわしているのだろうか。なんとも不気味だ。「布団を持ちあげようとしている」というのも意味がわからずゾクリとする。「口長婆」「布団女」など妖怪としての固有名詞がついてもおかしくなさそうに思えるが、やはり狐なればこそ、人々は納得できたのだろう。それにしても文中に登場する男、稲荷の前で立ち小便とはなかなかどうして罰当たりな輩である。

 参考文献は、当コラムではすでにおなじみとなった新庄市の郷土史『かつろく風土記』である。本書には上記以外にも怪しい話があまた記されている。いずれも生々しさに満ちた、情景がありありと浮かぶ逸話ばかり。入手は決して容易ではないが、ぜひとも手に取っていただきたい一冊だ。

第弐話

 怪しい出来事を伝えてくれるのは郷土史ばかりではない。毎日のように我々が目をとおす新聞にも、かつては怪事が載っていたのだ。次に紹介するのは明治12年4月22日付の山形新聞に掲載された、山形市香澄町の狐騒動である。

《同年4月14日、同町の青麻権現で狐の声が聞こえたため、近所の老女たちが鉄砲町の巫女に神おろしをしてもらった。すると、憑いた狐は「まもなく病院から出火し、市街地を7割がた焼き尽くすであろう。防ぐには油揚げ300枚を供え、念仏を7日間唱えよ」と告げた。老女たちは大騒ぎして、託宣のとおり油揚げを用意したそうである》(湯本豪一『地方発 明治妖怪ニュース』)

 明治12年には国内で感染症のコレラが流行、最終的には感染による死亡者が10万人を超える。そのような世相の不安が影響し、県庁所在地での狐騒ぎに繋がったのだろうか。いまも昔も、目に見えないものに怯え神仏や狐狸妖怪にすがるのは変わらないのかもしれない。ローカルニュースとはいえ、このような出来事が新聞記事になるというのも面白い。

『地方発 明治妖怪ニュース』は、その名のとおり明治時代の地方新聞に掲載された怪しい記事を集めた一冊。全国紙をあつかった「明治妖怪新聞」と併せて読むと、当時の人々がどのように〈怪しきモノ〉と共存していたかがよくわかる名著だ。

 編者の湯本豪一氏は妖怪研究で広く知られており、川崎市民ミュージアムの学芸室長を経たのち、2019年には広島県三次市に「湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)」をオープンさせている。コロナ禍が収束したあかつきには、同博物館へ足を運ぶことをおすすめしたい。

第参話

 與次郎、喜太郎以外にも「◯◯太郎」の名を冠する稲荷は各地に伝わっている。最後に紹介する政太郎稲荷は、その由来に歴史上の武将が登場する珍しい例である。

《飯豊町の尾幡山には、政太郎と呼ばれる狐が棲んでいた。源義家が後三年の役で苦戦していたおり、夢枕に観音菩薩があらわれ「ここより辰巳の方角にある山の老狐を味方にせよ」との託宣があった。さっそく義家が老狐を招聘すると、狐は多数の眷属を集めて敵の動向を監視し、みごと勝利に貢献した。義家は老狐を讃え、自らの名前「八幡太郎」から三文字を取り「尾幡政太郎」の名前を与えたという。

 政太郎は尾幡山ふもとにある柳の木に棲んでいたため「一本柳の政太郎」とも呼ばれ、尾の先に白い宝珠の目印があるためすぐに判るといわれた。また、尾幡山にはたびたび政太郎稲荷の狐火があらわれ、中津川に住む人々が見物したとの記録もある》(『山形の民話』第126号「中津川の伝承」山形民話の会編)

 源義家は平安時代の武将。東北地方を中心とする「前九年の役」での活躍が知られている。それほどなのある武将から一文字を授かったとは、なかなか由緒正しき妖狐である(尾幡山という山の名はいったい……という疑問は残るが)。

 興味深いのは、政太郎稲荷がその後も生き続け、地域の伝承にたびたび登場するところだろうか。地元民が狐火を見物している光景は、想像するだけでも楽しい。まさしく郷土の歴史の1ピースになっている。

『山形の民話』は、武田正氏を中心に組織されていた「山形民話の会」の会報。平成8年に発行された126号では、飯豊山麓の中津川地区を特集している。先に紹介した政太郎稲荷以外にも、小袖ヶ沢地区で起こった狐憑きの話や、憑いた狐を追い払う巻物の話などが載っている。この手の会報にはあまり知られていない「奇談の原石」がゴロゴロ転がっており、非常に嬉しくなってしまうのだ。

黒木あるじ

怪談作家。1976年青森県弘前市生まれ。東北芸術工科大学卒。池上冬樹世話役の「小説家(ライター)になろう」講座出身。2009年、『おまもり』で第7回ビーケーワン怪談大賞・佳作を受賞。同年『ささやき』で第1回『幽』怪談実話コンテストブンまわし賞を受賞し、2010年に『震(ふるえ)』でデビュー。

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