山形の〈昔の〉怖い話「其の三・怪しい地蔵の話」

だれかの散文|黒木あるじの山形あやかし取材帖

 お地蔵さま──仏教における菩薩の一尊である。日本では道祖神と習合して「子供を守る神様」として崇められ、「お地蔵さま」「お地蔵さん」などの呼称で親しまれている。いっぽう、人々の身近な存在であるためか、地蔵にちなんだ怪しい話も少なくない。狐狸が化けたとの伝承が一般的だが、なかには狐や狸の仕業とは思えぬ薄気味の悪いものもある。今回は、そんな地蔵の怪談を紹介してみよう。

第壱話

 まずは山あいにひっそりと佇む地蔵尊の話から。とはいっても単なる地蔵ではない。このお地蔵さま──とり憑くのである。

《かつて山形市滑川の街道沿いに一本の巨大なホオノキが立っており、傍らには朴地蔵と呼ばれる地蔵があった。ホオノキは1902(明治35)年9月に暴風雨で倒れてしまったが、折れた幹を佐藤嘉四郎氏なる人物が譲り受け、山形市の仏師に命じて弘法大師像を彫らせた。すると1912(明治45)年におこなわれた大師像開眼式のさなか、参列していたひとりの老婆が突然身体を震わせ「我は朴地蔵なるぞ」と叫ぶや、座ったままで跳躍したのである。皆が見る前で老婆はどんどん高く跳び、とうとう前にあった膳を越え、座敷の中央で跳びまわりはじめた。まもなく同席していた別の女性にも神が憑き、身体を震わせはじめた。その様子に一同は「なんともめでたい」と大いに喜んだそうである。》(『蔵王地蔵尊』蔵王地蔵保存会編)

 狐や蛇が憑いた──との逸話は各地に残っているが、地蔵が憑依した事例、加えて複数名に憑句というのは非常に珍しい。冷めた目で見れば「集団ヒステリーが原因であろう」と言いたくなるところだが、安易な結論を許さない迫力が場の空気に漂っている。

 おまけに最後の一文がなんとも興味深い。現代に生きる我々なら「恐ろしや」とジャンプ老婆におののくか、あるいは「憑依など非科学的だ」と喝破するかの二者択一だろう。ところが一同、喜んでしまったのである。めでたいことなのである。「憑き物」がどのような形で受容されていたかを知る、非常に貴重な記録だ。

『蔵王地蔵尊』は題名が示すとおり蔵王山周辺の地蔵尊をまとめた小冊子で、1980(昭和55)年に有志の手で発行された。全60ページ弱というコンパクトさに反し、内容は非常に濃い。朴地蔵以外にも、夢枕に立って自分を土中から掘るよう告げた「三名地蔵」や、悲恋のすえに建立された「頭加智地蔵」など、奇妙な謂れのある地蔵尊が紹介されている。

第弐話

 続いて紹介するのは、新庄市下金沢の接引寺にある「まかどの地蔵」。1755(宝暦5)年に餓死者を弔うため建てられ、曲がり角に置かれていたことからこの名で呼ばれるようになったという。現在でも、春秋の彼岸に餓死者を偲んで地蔵の口にあんこを塗るのが慣わしとなっている。地域に愛されてやまぬこの地蔵、実は優しいだけではない。怒るとすこぶる怖いのだ。

《明治三十六年に接引寺が火事で焼失した際、再建にともなって地蔵も曲がり角から移転されることとなった。そのとき建築にたずさわっていた大工の一人が、酔ったいきおいで「なんだ、こんなものに大騒ぎして」と地蔵の口へ、あんこ代わりに生ニシンを塗りたくった。するとその晩、激しい揺れとともに大工小屋へ錫杖を持った大入道があらわれ、当の大工を睨みつけると無言で立ち去った。ところが翌日小屋で寝ていた他の大工に訊ねると、みな「地震などなかった」「大入道など見なかった」と答えるではないか。「これは地蔵が怒ったに違いない」と悟った大工は、地蔵の口をきれいに清めて詫びたという。》(『かつろく風土記』笹喜四郎)

 なんとも恐ろしい異形の大入道ではあるが、大工を睨むにとどめている。さすがは慈愛に満ちた地蔵尊、仏罰というよりは「嗜めた」「諫めた」と表現すべきだろうか。同宿の者が異変に気づいていないあたりが、怪談としての味わいを深くしている。それにしても生ニシンを塗るとは……地蔵が怒るのも無理はない。

『かつろく風土記』は第一回でも紹介した、新庄の民俗や伝承をまとめた郷土史である。明治・大正期の奇談も数多く収録されており、いずれも土着的な不気味さに満ちている。おりを見て紹介したい。

第参話

 最後は〈怪しいモノ〉が地蔵のモデルとなった一編を紹介しよう。寺に出没した、得体の知れない子供の話だ。

《真室川町安楽城に滝応寺(りゅうおうじ)という寺がある。この寺では法要のためにほうぼうから和尚が集まると、誰も見たことのない真っ黒い小僧が一緒にお経を読んでおり、法要が済むといつのまにか消えているのだという。法要のたびにあらわれるので「これは仏の使いに違いない」と尊んで、その小僧を象って地蔵が作られた。それが現在の黒地蔵で、毎年三月十四日には縁日が開かれる。

 また、この地方には座敷童と呼ばれるものがいるとされた。子供が集まって遊んでいると人数がひとり多いことがある。これが座敷童で、姿は影法師のように真っ黒であるそうだ。》(『出羽今昔物語』安彦好重)

 寺院に奇妙な童子があらわれた話は、第一回掲載の「かぶきりこ」をはじめ各地に残っている。とはいえそれを地蔵に象った事例は珍しい。座敷わらしではないかとの推測もできるが、真っ黒な全身というのがゾクリとしてしまう。座敷わらしといえば、『遠野物語』の語り手であった佐々木喜善の『東奥異聞』では黒仏という怪異が紹介されている。もっとも黒仏は「寺が火事になった際に自力で逃げだした」とあるから、純然たる仏像とおぼしい。黒地蔵とはやや種類が異なるようだ。さて、真っ黒な子供の正体や如何に──。

『出羽今昔物語』は最上地方の伝承や伝説を集めた書籍で、1955(昭和30)年に「伝承童話編」、翌年に「伝説編」を刊行。1979(昭和54)年には合本が出版されている。収録された話は集落の牧歌的な伝承から偉人伝説まで幅広い。著者の安彦好重氏は国学院大学卒業後に県内で教鞭をとり、そののち山形県文化財保護協会会長や山形市芸文協会常任理事を務めた。2000(平成12)年に斎藤茂吉文化賞、2001(平成13)年には地域文化功労者文部科学大臣賞を受賞している。『出羽今昔物語』は真室川高等学校の教員時代に自費出版で刊行したものだが、いまでは山形の怪しい伝承を探るうえで欠かせない一冊となっている。

黒木あるじ

怪談作家。1976年青森県弘前市生まれ。東北芸術工科大学卒。池上冬樹世話役の「小説家(ライター)になろう」講座出身。2009年、『おまもり』で第7回ビーケーワン怪談大賞・佳作を受賞。同年『ささやき』で第1回『幽』怪談実話コンテストブンまわし賞を受賞し、2010年に『震(ふるえ)』でデビュー。

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